拾年先の折は

言葉の言枝の言幹の言根の植わった土を翻訳するために。

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涼しい日。時折晴れる。荒木経惟展「写狂老人A」で公開されたスクラップブック「八百屋のおじさん」を見た。その見開きの一頁目には「これは僕の"ピエロ考"です」と書かれていて、次の頁からは屈託無く銀歯を見せて笑う八百屋のおじさんの写真ばかりが続いた。写真を切り貼りする技法はこのときから使われていた。八百屋のおじさんが着ていた雨合羽を見てゴム引き布とはこういうものかと知った。ピエロは泣き笑いの表情が典型だ。おじさんの泣き顔はおそらく写真のプライバシーのうちに秘匿されている。

 

そういうピントを狙い定めたアート的作為乃至故意はポラロイド写真シリーズをはじめとする近年の写真行為の前では不純物のように思える。(しかしこれは写真家よりもぼくの持ち込んだ不純物だ。)八百屋のおじさんの作中でこの不純物を跳ね除ける連作写真がある。おじさんの顔を左斜め下から捉えたバストアップ写真を連射のように配置したもので、たしか20枚ある。陰影の濃いおじさんの顔は銅像のように見える。銅像はふつう死後に立つ。しかし銅像の連続写真はありえない。生=動と死=静が画中に同時に成立する。泣き顔を秘匿するおじさんという焦点は打ち砕かれる。銅像はなにも秘匿しない。

言葉の言枝の言幹の言根の植わった土を翻訳するために。