拾年先の折は

言葉の言枝の言幹の言根の植わった土を翻訳するために。

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午後から冷たい小雨。S宅で昼まで寝ていた。昨夜は昼は外食にしようと話していたが、起きてみるとその気になれない。といってあまり食材もないため、出前をとることにした。ピザが食べたくなり、ハーフアンドハーフを二枚、四種類のピザを注文した。出前が来るまでの間、先週の地点の観劇のあとで買った生麩ういろうをつまんでお茶を飲む。ういろうは電子レンジで簡単に作れる、Sの父方が岐阜なのでういろうは名物だけど父は好きじゃない、Sは姉妹そろって好きだと、ういろう話をしていると、思いのほか早くピザが届く。多少ういろうでお腹が膨れた感はあるけれども、ピザを二つとも開けて並べると豪華で食欲も出てくる。「夏目漱石の妻」を観ながら四種類のピザを一切れずつ食べた。午後はぼくが洗い物、Sが洗濯と、家事をしてのんびりと過ごす。ぼくは夜の予定のために六時には出かけなければならない。昼食から三時間ほどしか経っていないが、残りのピザを温めて平らげる。S宅を出るころには雨の音が少しおさまったようで、傘の心配をするSに晴れ男だからと自慢をした。外に出ると流石に止んではいなかったが、コートのフードと手ぬぐいで十分凌げる程度の小雨。駅から電車で下北沢に向かう。前から誘われていたイベントで、詩と音楽とダンスの即興パフォーマンスを見にいく。会場のバーに入ると、ほとんど客はいない。片隅のピアノとその周辺が演者のために空けられている。カウンター席に通され、メニューをよく見ずにシーバスリーガルをストレートで注文した。スコッチやアイラの一覧を見つけたのはそのあとだった。パフォーマンスが始まると、想像していたのとは少し違った。ダンスは能楽や神楽の所作を基調とし、ヴォーカルは歌よりもスキャットのテクニックのほうが印象深い。声と舞の即興的絡み合いとしてもパフォーマンスが十分に成立していたように感じる。詩の朗読は想像通りで面白みに欠けた。自作の詩の朗読部分は、執拗にリフレインを用いた物語詩で、これは観客を声量で圧迫して迫力らしいものを出していたが、それがどうにも気に入らない。隣の女性客は途中いびきをかいていた。誘ってくれた演者のひとりに挨拶し、パフォーマンスの構成について聞いた。リハーサルは一度合わせただけで、おおまかな流れ以外は即興だということだった。自作の詩については、以前に書いたものか即興かわからないということだったが、あの反復は即興だろう。反復の間にリズムや展開を整えていたのだろうから、それはテクニックだし、反復の執拗さもうなずける。あとは言葉をどう声に乗せるかだが、クレッシェンドに押すよりも、デクレッシェンドでこちらの耳を引きつける工夫が欲しかった。パフォーマンス後にラガヴーリンのストレートを注文する。むかし吉井和哉がおいしいといっていたウィスキーで、バーに行く機会があったら試してみようと思っていた。華やかな香りがしておいしい。二度目のパフォーマンスが始まる前に店を出る。ドリンク代とパフォーマンス代、合わせて五千円。値段と価値を秤にかけてもしかたがないが、さて、即興ものは規範があってこその楽しみではないかという考えが浮かぶ。演者の尋常の振る舞いと仕事を知っている人ならば、その素地から生まれる即興的振る舞いが面白く感じられる。演者にとっても、ある種の自己言及でもあるし、過去のコラージュともなるし、あるいはそれからあえて離れる挑戦として展開するかもしれないが、いずれにしても過去の最新としての現在形という規範を知らなければ、即興の未来志向は十分には楽しめないのではないか。初顔合わせの即興ものとは、どういう意味を持つのだろう。第一、舞台芸術はすべてがその場その時かぎりで、事前の取り決めがどこまで及んでいようが、あるいはそれが何度複製されていようが、舞台の観客には関係がない。その場で生まれたものがすべてで、最新で、観客にはそれしか知り得ないし、持ち越せない。だから、下準備や打ち合わせや本があろうがなかろうが、本来の観客はそんな舞台裏はちっとも気にかける必要はなくて、その場その時が面白かったり、意味を携えてさえいればいいはずだ。それなのに、演者にとっても観客にとっても、「即興」という前提が事前に置かれているし、そのあるなしが気にかかる。どうしてだろう。「即興」はその場に生起する振る舞いが誰にも保証されていないという責任逃れの言い訳かもしれない。しかしそれでは方法論にすぎない。「即興」の根本的価値はなんだろう。ひとつ言い得るのは、「即興」はまだ誰にも発見されていない何かかえがえのないものが奇跡的に発現するような、予期し得ない奇跡を心待ちにする演者と観客の期待の一形態ということか。通常の、準備されたパフォーマンスにだって、そのような奇跡の瞬間は常に期待されているだろうけれど。結局これも堂々巡りかもしれない。しかしそれでも「予期されない」という価値は残る。それから再現不可能性。ここにもひとつの価値があるだろうが、厳密に言ってすべての公演は再現不可能なわけで、新たな価値というよりは程度の問題。先にもなく、後にも残らず、その場限りの、予期されない、保証もされない、完成のない、再現もありえない、つかみどころのない時間の共有。その時間のために演者は働き、観客は支払う。なんなんだ、これは。

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