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拾年先の折は

言葉の言枝の言幹の言根の植わった土を翻訳するために。

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曇り。3日前の話になるが、Kさんと東京を散策した。早稲田大学の演劇博物館で待ち合わせをするが、人身事故で小田急線が使えなかったので下高井戸まで徒歩で行く。秋晴れで暑いほどだったが、気持ちよく歩けた。駅に到着するとちょうど京王新線が入構していたので乗り込む。大学から文科省実施のアンケート調査についてのメールが届いたので、回答するが、これがおそろしく長い。その間に降りる駅を乗り過ごしてしまった。戻りの電車で新宿三丁目に降りる。電車賃が思いのほか高い。路線の乗り越えがあったためだった。新宿と新宿三丁目間で倍増していた。新宿中央図書館に延滞していたCDを返却し、演博まで歩き、Kさんと合流する。ちょうど日本の沙翁受容に関する展示が催されていたが、後日ゆっくりと眺めることにして、英国古書データベースへのアクセスを求めて早稲田図書館別館へ。しかし設置されているPCはネットに繋がっておらず、目当ての資料には当たれず無駄足となった。気を取り直して、大学の庭などを経巡りながら江戸川橋のほうへと歩く。どこか見覚えのある商店街に入る。以前にも通ったことに思い当たる。食事処を探し歩いていた。そのときの店は潰れて、別の店舗が入っていた。代わりの飯屋を行き当たりに見つけて入る。昭和の古ぼけた佇まいで数十年来一度も換えていないような什器と縁起物の並ぶ定食屋。ぼくは生姜焼きを、Kさんは鯖かなにかの塩焼きの定食を食べ、ハムエッグを分け合った。醤油の濃い味つけにも年季が入っている。三杯は食べられるおかずだったが並盛りのごはん一杯でがまんした。塩焼きも十分に脂が乗っていて、Kさんはいたく感激していた。自宅のガス台を新調して以来、母がグリルの汚れるのを嫌がって焼き物を作らなくなったそうだ。昼食後は高架下を通りながら、印刷業の偉そうなビル群に所詮は印刷屋と悪態をつきつつ東京駅を目指し歩く。ふと自省し、研究を生業とするには性分が向かないのではと弱音も吐露する。神田のバラック古本屋で立ち止まり、三省堂の古書ブースで掘り出し物を漁り、三時間ほどの散策を目に足に存分に味わって、出光美術館に入る。仙厓の禅画の展示を閉館まで眺める。丸と三角と四角の図形に宇宙を見いだすのは禅思想というには西洋的な感じがするという点でKさんと合致。仙厓については名前も知らなかったが、おもしろい展示だった。数年前には白隠の大型企画展があったと思う。他館でも禅画展が開かれているという。禅ブームだろうか。実家のお宮さんは真言宗で地域的にも空海に縁があるため、ぼく自身の宗教観は土着の祖霊信仰と密教のミックスであると思う。しかし初詣に参拝する柳津の円蔵寺は真言宗から臨済宗へ改宗をした臨済宗の寺だ。密教は経典に文字として残る真言を唱え続けて悟りを開き、禅は文字や言葉には言い表せない悟りを修行によって体得する。真言を唱えつづけるということと、言葉には言い表せないものを得ようとするということは、表裏一体のように思える。美術館を出て、神田方面へ。銀ダラを余さず濾したような濃厚なラーメンを食べて、Kさんと別れ、帰宅した。

言葉の言枝の言幹の言根の植わった土を翻訳するために。