拾年先の折は

言葉の言枝の言幹の言根の植わった土を翻訳するために。

ラムズ

ラム姉弟のTales from Shakespeareは日本のシェイクスピア受容最初期においてきわめて重要なのだけれど、その受容の有様について本格的に研究された跡がない。

上演研究の上では、たとえば1885年の大阪戎屋の中村宗十郎一座による「何桜彼桜銭世中」は、「ヴェニスの商人」の原作本ではなくラム版を底本にして翻案しているとか、ラム本の影響力はつぶさに指摘されている。

が、当のラム本の翻訳とか、ラム本の翻訳が後の原本翻訳に及ぼした影響とか、ラム本が少年少女(とくに少女)に読ませるにあたって不健全と思われるものを除外し<検閲した>翻案テキストであることとか、シェイクスピアはそのように変形されて受容されていたのに、その変形を追求した研究した論がまるで見当たらない。

もちろん洋書としてシェイクスピア全集は早くから輸入されていたから、一部の特権的知識人の間ではそのような変形の流通など問題にならなかったのだろうが。。。

しかしシェイクスピア戯曲の受容と翻訳をテーマに扱うならば、このいびつな輸入流通期は重要。

なんせ明治期の混沌とした翻訳文体論の一大実験場がラム版シェイクスピアであり、その翻訳の熱視線の盲点には、ラム姉弟が<書かなかったこと>が確実に醸成されるエシカルシェイクスピア観を転覆せしめんと息を殺していたはずなのだよ。

言葉の言枝の言幹の言根の植わった土を翻訳するために。