拾年先の折は

言葉の言枝の言幹の言根の植わった土を翻訳するために。

グイエ

台風18号の雨音高まる。

グイエの演劇論を読む。

訳者である佐々木先生の『せりふの構造』は最近も参考文献とかでちらほら見かけるけど、便利すぎるんだよねほんとに。しかしいつまでも舞台と客席の縦横コミュニケーションで演劇構造説明しちゃってていいのか。ここでいう縦横はせりふの流通経路のみを図示した地図なわけで。

 

アンリ・グイエ『演劇と存在』(佐々木健一訳 1990)第二章pp.38-87から抜粋。

 もしも悲劇的瞬間が、超越者の現前が「実現」される瞬間であるとすれば、舞台から与えられる言葉やイメージの果たすべき機能は、ただ単にわれわれのなかに観念なり感情なりを生みだすことではなく、この観念なり感情なりの原因である存在を、同時にわれわれの目の前とわれわれの中に、現れさせることである。オイディプスの不幸が、われわれの魂のうちに、憐れみと恐れを目覚めさせるべきことは確かであるが、しかしそれは、オイディプスを憐れむべきものにし、かれの物語を怖るべきものにしている高次の力に、或る存在を賦与することによってのことである。

 目に見えない超越者に対して魂を開かせるこの藝術に対して名前を与えるとしたら、詩という名称以外に何があろうか。(71)

グイエの悲劇の原理をめぐる論考の中心がこの<超越者>であって、それがギリシャ悲劇の文脈では<運命>であったり、それより下ってキリスト教的悲劇の文脈では<神意>であったり、時代と文化背景によって現れかたには揺れがあるんだけど、基本的には同じシステムから生じていて、そのシステムを記す唯一の言語が<詩>であると。

 

ただしここでグイエのいう詩は韻文とかそういう形式を伴うものに限らない。曰く喚起力evocationを持つ舞台上の記号一般を詩とみなす。この喚起が問題で、詩の観客受容が舞台へと跳ね返ってくる。舞台上で見えたもの聞こえたものをきっかけに観客の耳目が感知されえなかった舞台上の記号の意味的余白marginに向くとまで言ってもいいのかしらん。

 

さて、じゃあそんな詩を訳すときにはどうすべきかという話。ここで戯曲翻訳は二段階の機能を求められる。まずは原語の意味の異言語への移し替え。それから訳語とその文脈の間に超越者を現前させるに足る喚起力を再現しなければならない。しかもその喚起力の塩梅に等量性も加味しなきゃならないから、前準備として喚起力の基準値測定が求められる。そこまでが翻訳者のレスポンシビリティだろう。もちろんこうした戯曲翻訳の原則は悲劇に限ったことじゃない、時事ネタローカルネタってものがある喜劇においてもだ。ひとまず着地。

 

 

 

せりふの構造 (講談社学術文庫)

せりふの構造 (講談社学術文庫)

 

 

演劇と存在

演劇と存在

 

 

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