拾年先の折は

言葉の言枝の言幹の言根の植わった土を翻訳するために。

20

快晴。台風とともに夏休暇も終わる。花袋の「蒲団」の締めくくり、帰郷した芳子の寄越した手紙、ガラス戸に影を見る茶色の帽子は、時雄のものか田中のものか。しかも時雄は田中の見送りの姿を知らず、田中はまた芳子の手紙を知らない。

こんなしみったれた小説だったかと呆れ返りつつも、感謝と詫びの手紙の中にそのような決定不可能性の針を差し込んだナラティブの手腕には息を呑んだ。

19

涼しい日。時折晴れる。荒木経惟展「写狂老人A」で公開されたスクラップブック「八百屋のおじさん」を見た。その見開きの一頁目には「これは僕の"ピエロ考"です」と書かれていて、次の頁からは屈託無く銀歯を見せて笑う八百屋のおじさんの写真ばかりが続いた。写真を切り貼りする技法はこのときから使われていた。八百屋のおじさんが着ていた雨合羽を見てゴム引き布とはこういうものかと知った。ピエロは泣き笑いの表情が典型だ。おじさんの泣き顔はおそらく写真のプライバシーのうちに秘匿されている。

 

そういうピントを狙い定めたアート的作為乃至故意はポラロイド写真シリーズをはじめとする近年の写真行為の前では不純物のように思える。(しかしこれは写真家よりもぼくの持ち込んだ不純物だ。)八百屋のおじさんの作中でこの不純物を跳ね除ける連作写真がある。おじさんの顔を左斜め下から捉えたバストアップ写真を連射のように配置したもので、たしか20枚ある。陰影の濃いおじさんの顔は銅像のように見える。銅像はふつう死後に立つ。しかし銅像の連続写真はありえない。生=動と死=静が画中に同時に成立する。泣き顔を秘匿するおじさんという焦点は打ち砕かれる。銅像はなにも秘匿しない。

18

初夏快晴の蒸し暑さ。

 

これからは逐語訳でも機能訳でもなく、まして作家個性訳でもない、作品固有訳を追求しなくてはならない。その追求に耐えうる作品は聖典となり、追求された言語は聖なる言語の一部分となる。

17

晴天。第何次目かしれないバンドブームがなんとなくほどほどの熱さから下がるでもなく続いているのは、これが一度も過熱しなかったからかもしれない。定かじゃないが2009年の時点では膨張後急激にしぼみそうな気配があった。膨らみきらなかったために破裂に至らない微細な孔がポツポツ開いて緩やかに空気漏れしているような感じがある。

 

ともかくも問題はテーマの喪失だ。喪失をテーマにすることもできない喪失の喪失で、喪失をテーマにした過去の仕事をなんとなくなぞっている無聊という喪失に気がつかないか、気づいてはいるけどそこから離れられないのか、喪失に憧れていることが今の悩みですと、堂々巡りのひとりごとをメロディーに乗せて無為な時間を慰めるロックバンドばかりで、聞こえてくる歌詞の次のフレーズが聞くより前に頭に浮かんでくる。そしたらそっくりそのままの歌詞が追いかけてきて、こちらはもううんざりして聞くのをやめる。そのくせ演奏力が全体的にかつてなく高水準に思えるのは力無い歌詞を補うチームワークなのかもしれない。どこにチューニングしてもそんな調子ではこちらの気持ちがクサクサするばかりなのでそれならいっそEDMで踊り狂って憂さ晴らしするほうが健康的だということで昨今の大流行なんじゃあるまいか。

 

しかし憂さ晴らしは本来ロックバンドの仕事だろう。それがお株を奪われているということ、その理由に、エレカシを聴いて思い当たった。

 


ガストロンジャー

 

本気で悩んだら悩みっぱなしじゃおかれない。「結論した」はロックバンドにだけ許される黄金のフレーズだ。結論を大声でひとくさりぶってくれるから、こちらの溜飲も下がるし、憂さが晴れる。結局ロックはハレである。ケなる日々を鬱々と過ごして曲を練り上げ、大結論をひっさげて我々の前に躍り出て、憂さ晴らしをでっちあげるのが。それを我々が消費するわけだが、しかしいくら消費しても枯れない声があって、そういう声を讃えてロックと称してきたし、その芯の硬さがあればこそどこまでも響く鉄の音がして、どこでだって聞きつけた人が集まってくる。

 


U2 - Where The Streets Have No Name

 

こんなふうに。

 

結論を示せ。うそでもいいから。

15

快晴と大風。実家に帰る東北本線が強風の影響でかき乱され、黒磯で運休となった列車を見送り、一時間弱の停滞を余儀なくされた。申し訳なさそうな駅員に頼んで駅を出て、どこかで昼食を取ろうと冷たく晴れた外に出ると、駅前に知らない店が増えている。東京ではどこの町でも珍しくないブーランジェリーと、併設されたカフェ。固く焼いたアンパンとツナとオリーブのサンドイッチがよかった。固い皮の中はしっとりとしている。塩はひかえめなのか、エピは少しコクが足りなかったように思う。東京で開催されるクラフトベーカリーのイベントに出店しているらしいが、こういうパン屋をそう呼んでいるとは知らなかった。黒磯はどことなく灰色に寂れた感じが好きで、古い銀行の居抜きを改造した近代建築のカフェ・フランボワが気に入っているのだけど、新しい風が吹き込んでいるように感じる。駅前には相変わらず大きなヨーカドーのサインが目立っているけど。

 

黒磯から郡山への東北本線は、一本遅れで順調に走っていたが、白河を過ぎたところで停止信号が止まらなくなった。風で規制された列車の運行間隔が詰まっている。午後の陽が差して車内はもわもわと暑くなり、いらいらを抑え込んで黙り込む乗客の忍耐強さが、不自然なほど虚ろな静けさを作っている。通常は一時間弱の行程が相次ぐ停車と徐行運転で二時間余りにまで延長されて、いらいらとの戦いに疲れの色を見せる乗客は、待ちぼうけを食らっている先方からの電話に力なく呆れ笑い。「自然災害だから」のあとに言葉にせずとも聞こえてくるしかたないの五音節。日が傾いて西の高台の住宅地に隠れそうな午後四時過ぎは、晴れているのにさ細雪が舞っている。

14

快晴。昨年末に母方の祖母が他界し、お正月は初詣なし、とはいえ論文、新規翻訳とそれどころではなかった。立て続けに来年の出講予定が決まり、ひとまず向こう一年の目処が立ったのは安心材料。授業も先週で終わり、春休みに入るが、まずは月末に6月の年次発表の構想発表があり、その後は授業準備から帰省、翻訳連載もはじまる。月に二、三の締め切りが今後の水準になる気がしている。

 

ウェブスター辞書のアプリをきっかけに、ラテン語由来の"malum"(複:mala)が「悪」と「りんご」の両義を持つと知った。両義を持つに至った経緯にもほぼ同音の語のミックスが作用しているようだが、それより「魔羅」との関連が気になって調べた。残念ながら魔羅はmaraであり、またいつもの日本人的混同をやってしまったかと挫けてしまった。しかしRとLを峻別するヨーロッパ言語圏の人々は、本当にこの音を峻別し続けてきたのだろうか、という長年の問いをもう少し調べてみることにした。すると実は彼らの発音機能をもってしても、RとLを混同する「異化''dissimilation"」現象は言語史によくあらわれるという。インド・ヨーロッパ語族の同一の語源から、malumと魔羅が派生している線はまだ消えていないかもしれない。参考にしたサイトをリンクメモしておく。

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/2087464.html

http://user.keio.ac.jp/~rhotta/hellog/2009-07-09-1.html

https://en.m.wikipedia.org/wiki/Apple_(symbolism)

キリスト教圏の諸悪の根源と、仏教の悪の象徴が同じ語源から派生した二本の枝葉だとしたらとてもおもしろい。

 

言葉の言枝の言幹の言根の植わった土を翻訳するために。