29

快晴。京都に来ている。地点による『ハムレットマシーン』を見に。数年ぶりの夜行バスで七時間強。四列並びの最前列で、たまたま隣が空席だったので、前にも隣にも気を使うことなく快適だったが、あまり眠れず。うつらうつらとしているうちに京都についていた。夜明け前の京都は暗くて寒い。眠り薬に奮発したポケットサイズのグレンファークラス十二年を駅前のベンチで空けたころによっと日が上って暖かくなり始めた。駅に入っている「釜飯土井」で漬物ビュッフェの朝食を腹一杯に食べる。劇場は九条と鴨川のぶつかるところにあるので、なんとなく南に動いて九条駅近くのホステル併設カフェでスマホとモバイルWi-Fiのバッテリーを回復しながら日記を書いている。前回のポストからもう一週間以上経っていた。やはり日々のブログ更新は性に合わないのか。

 

先週末は新国立にバレエ「ロメオとジュリエット」を見に行った。どうしても原作と比較をしながら見てしまうが、筋の運びをうまく身体表現に落とし込んでいて、とても良かった。演出ではジュリエットの幼さが際立った。それが良い。ジュリエットはまだ子供で、ロミオもまだ大人ではない。大人の理屈がわかる年頃になれば、二人は両家の仲違い構造に組み入れられてしまっている。そうなる前に、純粋な恋愛と友愛に子供たちが燃え尽きるからこその悲劇なのであって、子供たちに燃え尽きる運命を敷いた大人たちの大人げなさが原作の焦点だ。しかし本作のバレエ表現では、大人たちの対立構造はあまり前に出ない。むしろ原作では言葉を交わす以外にないバルコニーシーンの、両想いのパ・ド・ドゥに目ざましく、子供たちの心情に焦点が合っていて、そのために本作は乳母に甘える子供から恋に生きる少女へと変貌するジュリエットの悲劇として成立している。ジュリエットの自害をもって幕を閉じるのも、バレリーナが主役を務めるバレエならではの演出だ。

28

Sからお誕生日のお祝い品にNintendo switchを買ってもらった。ふたりでうちに帰って早速いじってみると、なにより音がいい。操作音ひとつからして心地良い。これはソフトを問わず暇があれば遊んでしまいそうだ。これだけ映像が権勢を誇っている時代に、声優界しかり、ASMRしかり、音の質感への注目(?)が高まっていると感じる瞬間が最近はとみに多い。それはたぶん耳が視覚情報の真贋鑑別者になっているからだろう。画の、情報のフェイクネスをはじきだす、最も手近な品質判断材料。音の良さを聞き分ける耳は目ほどぞうさもなくだまされやしない。目ほど飽き性でもない。音の粗末なものは、分野を問わず、みんなやがてきっと省みる人もなく淘汰されていく、Youtuberであれ、映画であれ、本であれ、翻訳であれ。

27

曇天。風邪の治りかけだが散歩したかったので、焼いてもらったゲイシャ豆の受け取りも兼ねて外出した。DQウォークしつつプライムミュージックでHaruka Nakamuraの未聴作を二枚聴く。MELODICAは2013年のリリース。最初と最後のトラックがNujabesとの共同制作だが、その二曲以外もLo-fi hip hopな作りで、追悼作の印象。豆をぶら下げて一万歩弱、二時間ほど歩く。Kさんがおいしそうな貝出汁ラーメンの食レポをくれたので、なにかレポ返しできるようなものが食べたくなる。近所に開店したばかりのハンバーガーショップに行ってみたが、一歩遅く品切れ。その帰り道、コーヒーショップの店先でダンボール箱に隠れて通行人を驚かしている兄妹に、満面の笑みで驚かされる。店長さんの子かな。ヘッドホンをしていなければもうちょっといい反応ができたと思うし、カメラを持っていれば写真を撮らせてもらえたかもしれない。こういうときiPhoneではちょっと忍びない。無印良品で部屋着のトレーナーや日用品の買い物をして帰宅。暑くないのに妙に汗ばむし咳も出るので、歩きすぎだろう。ぬるめの風呂につかることにする。その前に部屋の掃き掃除。風呂の後は仕事。


haruka nakamura - Lamp feat.Nujabes 【Official MV】

 [翻訳論:1]翻訳の「等価性」と「等量性」

これまでTwitter上に書き散らした翻訳関係のつぶやきをまとめておく。

いま現在の私の翻訳論として結論に近いのは「翻訳の目指す等量等質とは言語的屑山の等量等質なのである」かな。「等質」は無くもがなだが。

「翻訳の等量」という概念は野上豊一郎の『翻訳論』から取っている。野上はこれを原文との逐語的等量の意味で用いていたと思う。逐語的等量は翻訳の達成すべき意味的機能的「等価性」の前では一見無防備な翻訳規範だ。

しかしこの等量性を、作者がついに選ばなかった言葉群との逐語的等量への転換する。作者が選ばなかったように翻訳者も選ばないための訳語の追求。そこに堆積する言葉の削り屑、との等量。

原文は作者が選びとらなかった言葉でできている。原文は作者にそのように書かせたところのものを意味する。原文は書かれていないことに開かれている。ゆえに翻訳はその開放を訳文に綴じ込めなければならない。その開放は選びとらなかった訳語を削る鑿の痕にある。

26

少雨のち曇天。夕暮れには一時雲が切れて黄金に燃える夕焼けが見えた。

三十三歳のゾロ目年を迎えたのはいいきっかけなので、不定期ブログの使い方を見直して、次のゾロ目年まで日毎の更新を目標にしたい。

そこでブログの屋号を「拾年先の折は」から「拾壱年先の折は」にマイナーチェンジ。拾壱年先の折には、三千三百のエントリーがありますように。

 

Full Fathom Five (thy father lies)

A Christmas Carol (condensed by Dickens himself, 1868)のStave threeに "full five minutes"という記述を見つけて、Arielの歌中の "Full Fathom Five" を思い出す。

思い出しついでに、Full Five... の言い回しはChaucerにも見た。院の授業でのことなので、5年越しの記憶だ。

 

Wherefore, Lord Phoebus, this request I make -
Without this miracle, my heart will break -
That at the time of your next opposition,
Which will be in the Lion, make petition
To her that she so great a flood will bring
That full five fathoms shall it over-spring
The highest rock in Armoric Brittany;

(The Canterbury Tales, The Franklin's Tale, 347-53)

 

ところでwikipediaにも "Full Fathom Five" の記事があった。The Tempestを元ネタと記している。

 

(bblack starr)

時が煙草を一本つまみ上げ、あんたの唇の隙間に差し込む

あんたは一口、二口と酒を飲み下して、煙草をふかす

びっしり詰めかけた客の歓声、止みやしない、でもじきに気にならなくなる

そう、あんたはロックンロールと心中するんだ

 

失うには遅すぎて、決めるには早すぎて、

阿呆面ぶら下げた連中がじっとあんたの歌を待っている

この街ももう長いからカフェに顔出すこともなくなった

そうだよ、あんたはロックンロールと心中するんだ

 

ふらふら道を横切ればシボレーのブレーキ音が鳴り喚く

それより夜が明けちまうからとあんたは家路を急ぐ

太陽にあんたの幻を灼き消されないように

牛乳販売の車に心を踏み躙られないように

馬鹿正直なのさ、神を信じちゃいないだけで

 

ちがう、きみはひとりじゃない

自分を押し殺すのと独りよがりは違う

頭がこんがらがっているだけなんだ、それに気づいてくれよ

ちがう、ひとりぼっちじゃない

きみがどんなやつでも

きみがいつどこでどんな目にあっていても

ありとあらゆる刃で頭の中をずたずたにされたのなら

きみの痛みはおれの痛みだ、分かちもてば和らぐよ

ひとりぼっちじゃないんだ

 

おいで、楽になろう、きみはひとりじゃない

おいで、楽になろう、きみはひとりじやない、すてきだよ

楽になろう、もうひとりじゃない、きみはすてきだよ

その手をこっちへ、きみたちはすてきだ

その手をこっちへ、きみたちはすてきだ

さあその手をこっちへ

25

快晴。昨晩の錬肉工房「春と修羅」の舞台の静けさを懐かしむ。それは意味の重荷をもたない音や声の静けさ。そんな音の響が空間に限りなく飛び交っていてあちこちで響の粒子が衝突し我々の耳にも聞こえる私信めいた言葉のかたちをとる。私を経由してどこかへ流れていく私信だ。私にも読めそうな文字で書かれているが、その本当の受取人は紙面の文字を模様か何かのように眺めて送り主のことを懐かしむだろう。

24

快晴。昨日は雨上がりを待って洗濯を済ませ午後は国会図書館へ。月初め、というのが影響しているのか午前の雨のせいか単に木曜の常か、いつになく空いていた。尾崎紅葉に関する論文を一つ読み、必要な資料を5点ほどコピーする。3時間半ほどして図書館を立つ。その後あたたかい夜を3時間弱歩いて帰る。十三夜の月が白々と明るいので夜道の写真を何枚か撮る。川か線路のほうへ大きくはみ出した大枝を支える木材に鳥居の形をしているものがあるのに気づく。焼きりんご味のアイスクリームを買って食べる。新宿を避けて代々木のほうに抜けようと思い、信濃町を斜行して国立競技場に迷い込む。解体中か建設中かもわからない円形の構築はコロセウムのように見えた。参宮橋まで歩いて電車に乗る。車内の暑さと春めいた人声にすこし辟易する。

23

雨と風。注意報が出るほどの風が吹くらしいが商店街の吹き抜け通りは雨音だけして、雨は垂直に落ちている気配だ。このところ眠りの質が悪いようで何度も起きたり妙な夢を見たり。寝つきは悪くなかったのだけど昨晩はついに頭が重いような体がこわばるような感じで1時間あまり眠れない。そのうえこうして夜明け前に起きている。眠りも浅いのだろう。起き抜けが夢うつつで今しがたの夢の光景に現実感がある乃至は最近の実体験の記憶と夢の区別がつかない。夢の中の町にはここ数ヶ月行っていないのだからあれは夢だ、と記憶力に確信がないものだから推量に頼らざるを得ない。そんな夢にかぎってSが現れる。夢の中でも夢だとわかるような類の場面には滅多に現れないのに。あるいはSが私の現実だから、Sの非在を頼りに判じていた夢うつつの境線が曖昧になるのかもしれない。数年間でこれなのだ。数十年と連れ添った伴侶を亡くして自失する人が思い遣られる。失ったのは伴侶ではない。失ったのは伴侶なしでは成立しない我が身と我が現実の見境。誰々なしの世界は考えられないなどと言うときも、考えられないのはその人の欠けたこれからのことではなく、その人なしでは嘘や夢と区別がつかないこれまでのこと。夜が白んだ。予報通り風雨が強くなってきた。